昭和の初期に大阪で始まった、
少女たちによる一人遣い人形芝居の
今日までの総称です。
[操作方法]
乙女文楽は、三人遣いの文楽人形を一人で遣います。人形の首(かしら)を遣い手の頭と左右一本ずつの細紐で連結。手は、人形の着物の両の袂の後ろから遣い手が手を入れて、人形の手を持ち、足は遣い手の膝頭の上に結わいつけ、人形遣いの身体の動きを直接人形の動きに置き換えます。
遣い手の身体に人形を固定する方法は、遣い手の二の腕の上部に人形をつけた腕金と呼ぶ湾曲した棒状の金具をひっかける「腕金式」と、遣い手の腹胸部に胴金と呼ばれる人形取り付け装置の付いた胴巻きを締め付けて固定する「胴金式」の二つの方法があります。乙女文楽の人形の遣いが他の人形と異なる点は、あらゆる人形が胴串(心串)を握って遣うのに対し、胴串を持つことがないことです。目、口、眉などを動かす場合は、その作動器である胴串のチョイに指をかけます。
[乙女文楽の歴史]
乙女文楽の誕生は、文楽座の焼失等で文楽が衰退した大正末期から昭和初年にかけての事でした。素人浄瑠璃が盛んで、林二木(じぼく)という技量自慢が大阪新世界のラジウム温泉で、素人浄瑠璃の人寄せ策として宝塚少女歌劇にあやかって、少女による一人遣い文楽を大正十四年に考案、翌年に初演を行いました。ラジウム温泉専属となったこの座は「娘文楽」と命名され、林の創案した「腕金式」を操って主に温泉劇場で浄瑠璃人形芝居を上演。
その一方で、文楽座の桐竹門造氏・吉田栄三郎氏の手によって考案された「胴金式」を使い、桐竹政子氏が座頭となり、昭和五年に「大阪乙女文楽」が結成されました。「娘文楽」がショー中心の旦那芸であったのに対し、「大阪乙女文楽」は当時全盛の女義太夫や、新義座(文楽の義太夫、三味線)等と組んで興業を行う、より本格的なものでした。
全盛期には「娘文楽」「大阪乙女文楽」「女文楽」の三座が活躍しましたが、戦時中に多くの人形が焼失し、日本の伝統文化にとってかなりの損失となりました。戦後、桐竹智恵子氏が茅ヶ崎に本拠を起き、平塚市の文化財として保存されています。しかし現在、乙女文楽は大衆芸能として存在せずプロの人形遣いは数少ない状態です。
[乙女文楽と桐竹繭紗也]
桐竹繭紗也(きりたけまさや)は、平成16年(2004年)1月9日をもちまして桐竹政子師匠のご指導のもと、桐竹繭紗也の御名前をお許し頂きました。
操作方法は、「腕金式」と「胴金式」を踏まえて、先生方のアドバイスを頂き「肩金式」を考案し実践しています。古典をベースに新しい作品を制作し、乙女文楽が生きた芸能として存在するべく日々活動を続けています。